私設軍「奇兵隊」を率いて俗論派に勝利した高杉晋作は長州藩の実権を握った。だが、当時死の病だった結核を発症。1867年、27歳の晋作は志半ばで生涯を終える。
しかし、彼が目指した新しい日本は、次の世代に受け継がれたのである。そして、高杉晋作が生涯、師と仰いた松下村塾の主宰者が吉田松陰であった。
吉田松陰は、明治維新に活躍する政財界人を大勢育てた教育者である。
1830年、萩で生まれ吉田家の養子となった松陰は、幼い頃から厳しい教育を受ける。
学才豊かな松陰は、9歳で藩校明倫館の教授見習い、11歳で長州藩主を前に講義を行った。
21歳で九州に遊学した松陰は、アヘン戦争や世界の状況などについても見識を深め、「国を守るには、外国のことを知ることが大切」と考えるようになる。
1854年、海外への渡航を企てた松陰は、下田に来航中のペリーに「アメリカに連れて行ってほしい」と願うが失敗。松陰は、密航未遂の罪で野山獄に送られてしまった。
獄中の松陰は読書にいそしみ論語を教えていたが、やがて囚人仲間からは習字や俳句を学ぶようになると獄中は学校と化し、牢の監視役も松陰の講義を聞くようになる。
その後、出獄を許された松陰は自宅で講義をしていたが、次第に人が増えたため、かつて松陰の叔父が開いた松下村塾を引き継いだのがすべての始まりだった。
幕末維新の志士を数多く輩出した松下村塾は、明治日本の産業革命遺産のひとつとして世界遺産にも登録されている。
増築を重ねた松下村塾の建屋は、身分を問わないという吉田松陰の教えに基づき、松陰と門下生が手作業で築いたものだ。ここで育った幕末維新の逸材の名を見れば、日本の歴史に大きく貢献した場であることが誰でも理解できるだろう。
松下村塾で松陰が指導に当たったのは約2年という短さだが、高杉晋作、伊藤博文など幕末から明治時代に活躍する優秀な人材を多数輩出する。
松陰は当時10代の伊藤博文を「周旋家(=政治家)向き」と評し、早くから才能を見抜いていた。
人望が厚く誰にも好かれた松陰だったが、1859年老中の暗殺を企てた罪により、30歳の生涯を遂げる。松陰の「国を守りたい」という想いは、前述のように高杉晋作そして伊藤博文たちへと受け継がれ、明治時代の近代化社会の構築につながった。
21世紀の現在、萩の町で松陰は「吉田松陰先生」と呼ばれ親しまれている。吉田松陰は、幕末維新志士たちの育ての親であると同時に、昔も今も萩の英雄なのだ。
明治維新というドラマをより一層楽しむために有用なのが幕末をテーマに制作された映画だ。
中でも高杉晋作や伊藤博文が活躍する「長州ファイブ」、吉田松陰が野山獄にいた時の恋愛を描く「獄(ひとや)に咲く花」はDVDやレンタルで一度は見ておきたい作品だ。
藍場川の水を屋敷内に引き入れて流水式の池水庭園をつくり、池を出た水は家の中に作られたハトバというところで家庭用水として使われていた。エコハウス機能を備えた藩政時代の武家屋敷だ。